2011/03/11 の あと・・・
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震災ボランティア(福島県南相馬市)(2014/02/27〜2014/03/02)
 きっかけ 参加できる背景 1日目(移動日) 2日目(作業1日目)
 3日目(作業2日目) 4日目(帰着日) 軽トラック 後付けの「理由」
 ・組合の新聞

2013.3.10に思ったこと(2013/03/10)

大船渡に行ってきました(2012/07/21)


「つなみ」(文藝春秋臨時増刊号)(2011/07/31)
□いやでもその政治の上で暮らしてるという現実
□地震予知について → 2013.3.10に思ったこと

震災ボランティア(岩手県大船渡市)(2011/06/20〜2011/06/25)
(きっかけ) (06/20) (06/21) (06/22) (06/23) (06/24) (06/25)

■日記
(04/06) (04/01) (03/30) (03/25) (03/21-2) (03/21) (03/16)





 ↓ 震災ボランティア ↓


■震災ボランティア(福島県南相馬市)(2014/02/27〜2014/03/02)

■きっかけ
組合から連絡がありました。
内容は「東日本大震災からの復興・支援の取り組みとしてボランティア行動を、以下のとおり実施します。参加・協力をお願いします。」

期間:2/27(金)〜3/2(日)
活動場所:福島県南相馬市小高区周辺
その他いろいろ詳細が

あ、また、行ってみよ。
なんとなく、参加したいなぁ・・・、って感じ。

募集数は全国から25名。東北からはは2名とのこと。
希望者が多くて抽選が必要な状況になったら辞退しますが
希望者がいなくてお困りでしたら声をかけてください。
で、声がかかりました。


■参加できる背景
職場が、参加させていただける状況で、家庭も、参加していい状況だから。
わかりやすく誤解を恐れず言わせてもらえば「いい会社に勤めてて、家族みんなが元気で健康だから」ってことだと思っています。


■1日目(移動日)
今回の要請は全国から25名。集合場所は東京。そこからバスで南相馬へ。
だけど、秋田から参加するのに東京経由で南相馬はあまりにもムダが多い。だからぼくは南相馬直行でいいよ。にしていただきました。仙台までは新幹線。仙台からはレンタカー。っていう発令に。

東京からのみなさんは、宿に着くのが6時過ぎとの情報。さて、時間がたっぷりあるぼくはどうしようか。あれこれ考えたんだけど「ここから先へは行けません」まで行ってみよ。に決めました。

レンタカー屋さんで車を受け取り、目的地を入力。久しぶりの仙台市内のドライブ。なんだかとっても懐かしい感じ。

そして南相馬・・・
国道6号
ここまで津波がきました。の標識
津波にやられて手付かずの住宅
いまだに田んぼに転がってる自動車

浪江町の入り口で、おまわりさんが丁寧に、「ごめんなさいね。許可証が無いと行けないんですよ」って。
「ごくろうさまです。わかってます。ここまで来てみたかったんです」
「どうしてこちらまで?」
「そこの小高にボランティアで来たので、ちょっと足をのばしてみました。ごめんなさいね」
「ありがとうございます。お気をつけて」


浪江町に


ここからは許可車両だけ


右奥に誘導されてUターン


南相馬の一本松


NHKでは、毎日夕方これが




みんなの到着を待って、みんなとご飯を食べて、結団式と顔合わせ。みなさんよろしくお願いします^^



■2日目(作業1日目)
やったことは「家具の搬出、廃棄物の分別、袋詰め」
こんな言い方になるんだけどもっとわかりやすく書くと・・・

南相馬市の、被曝しちゃったおうち。
家は、リフォームします。また住みます。で、お家の中のものは全て捨ててください。額に入れて飾ってある表彰状、感謝状だけを残して、全て捨ててください。っていう依頼だそう。


旅館を出発〜


ボランティアセンターの朝。



今日の作業の説明。


福島第一がたいへんなことになったからとにかく逃げなさい。で
カレンダーは2011年の3月のまま。洗濯物は干したまま。コタツは、いかにもさっきまで人がいたような雰囲気。
黙祷をしてから作業開始。
全てあっちに運んで、全て袋に詰める。他人の生活をまるまる見ることになって、他人の生活をまるごと捨てる作業。とっても切なかった。

たんすの中のもの、大事なもの、見られたくないだろうもの、すべて・・・
遺影も捨てて。ぼくは、避けた。できなかった。
だれかがいったん外の作業場に運んで、もしかしたら流れでゴミ袋に入っちゃってもおかしくない状況にまでなってたけど、やっぱり戻そうってことになって戻した。よかった。

でも、卒業証書もアルバムも、被曝してるからって理由で捨てるんだって。

信じられなかった・・・

つらかった。

完了しなかったけど、きょうは終わり。


黙々と


軽トラでここまで運んで、ここにおろして、壊したり砕いたりして袋詰め。


休憩しましょ〜!って声がかかってから撮った写真。
必死に作業をしている時は、ここは戦場。もう、とってもすごい状況でした。この写真じゃ伝わらないですねぇ・・・。



お昼休みのあとで集合写真の撮影。




午後もがんばろ〜!



だんだん袋が増えてきました


袋に入れなきゃいけないから、とにかく壊します。ひたすら破壊します。


きょうは、このへんで終了。


夜、地元のお母さん(語り部さん)の話を聞いた。

「絶対安全だ。絶対安心だ」っていわれてたから信じてた。
でも、人間のやることに「絶対」はないって、いまさらながら思った。
繰り返しちゃいけない。繰り返してほしくない。

って言ってた。



■3日目(作業2日目)
きょうは、2班に分かれて。ぼくたちの班は、おうちを片付けにきたご夫婦のお宅へ。
あ、全部で25人で、今日はぼくたち6人が別。19人は昨日の継続。

ぼくたちが今回入ったのは「避難指示解除準備区域」。日中は出入り自由なんだけど泊まることは許されていない地域。そのご夫婦は「昨夜はこっそり泊ったの。ナイショね^^」って。

依頼されたことは「この部屋とこの部屋とこの部屋を片付けてください」「小屋にあるあのゴミを全部道路わきに出してください」の二つ

具体的には

ゴミは全てポリ袋か土のう袋にいれないといけなくて、ほんとはぼくらの昨日の作業で使った「1トン入れることができる袋」だったらよかったんだけどそれでは回収してもらえないらしくて、全てのものを土のう袋に入るサイズに切ったり割ったりちぎったり。で、疲れた^^;ふとんやダンボールが強敵だった。

でも、とってもよろこんでもらえて、ぼくたちもうれしかった。そこのお父さんは、いろいろ話を聞いてほしいみたいで、地震が発生したときのことから、津波が押し寄せてきたこと、わけがわからないまま放射能から避難させられたことを話してくれた。揺れてるときはもうなんにもできなかった。津波から逃げようとしたときは、とにかく慌ててしまって全然冷静になれなかった。知り合いのご夫婦が丸太や角材にしがみついてがんばったけど・・・。このあとどこでどうするのか、何も知らされないままバスに乗せられて、福島市に運ばれたり新潟市まで運ばれたりした人がいた。そんな話やあんな話。

もっともっと話したそうだったんだけど、仕事が残ってて残念だけど途中で話を止めてしまった。それが心残り。でも、変ないいかただけど、いい話を聞くことができてよかった。ほんとはもっともっと聞きたかった。

今後も機会があったら小高に来てちょうだい。って、お茶やお菓子をいただいて、作業終了。


ここに置いといてくださいね。


あっちに見えるのが小高駅


入り口は閉ざされています





現在は、ここ小高駅には列車は来ません。
JR東日本発表の
◆2011年3月11日より運転見合わせ ‥‥
・常磐線(広野〜原ノ町間・相馬〜浜吉田間)
ここの区間に入ってます。



午後は昨日の場所で継続。完了ではないけど、一区切り。

1トン入るゴミ袋が93袋。みんながんばりました。おつかれさまでした^^


みんなと合流


こんなに!全部で93袋!!!


みんなの汗の成果です


後片付け〜


汗っかきのおじさんは両日ともお昼でシャツを着替えて、両日ともアクエリアス1本じゃ足りなくて、首にかけてるタオルは常にフル稼働でした^^; この赤いジャンパーがこれまた暑くて暑くてもう大変!



現場で集合写真
軽トラの車窓から^^


後日いただいた写真
 ↓





で、作業終了!



宿へ帰る途中 一本松に寄って






夜は解団式

まずは、だれも怪我をしないで無事に終了できたことがなにより大事。

それと、秋田の人から福岡の人まで、総勢25名。いろんな人といろんな話ができたことがなによりの収穫。


相変わらずのおじさん^^;


1枚じゃ足りないおじさん^^;

やっとうちとけてきた。っていうころにお別れ。これが残念。もう1泊〜2泊してもいいような。だけど、実際の作業を考えると、作業3日目なんてなると、疲れが出てきて怪我をしやすくなっちゃうだろうから、だからこれで仕方ないのかもしれない。

ちょっとづつちょっとづつの積み重ねが大きなものになればそれでいいかもしれない。

待ってる人からすると、少しじれったいかもしれない。

でも、止まらずに、続ければ、なんとか、なるんじゃないかな。



■4日目(帰着日)
現地集合現地解散のささきさん。
レンタカーを返して、仙台からの車内でひとり寂しくこれを書いてます。

みんなはバスで盛り上がってるのかなぁ。
歌ってるのかなぁ?遠足じゃないって^^;
疲れて寝てるのかなぁ。



■軽トラック
作業初日、朝の打ち合わせで
「軽トラックの運転をお願いできる人いませんか?」
ちょっと間があったから「ぼくやりますよ」

走り出した瞬間、みんなが「佐々木さん、軽トラが妙に似合いますね」って言ってたらしい^^;

で、作業中も「いや〜、軽トラはやっぱり佐々木さんだ」って。

え〜!なんで〜?

たぶん、窓を開けて肘を置いてる姿勢とか、顔の雰囲気のせいじゃない?^m^
って言われた^^;

軽トラと言えば佐々木さん
佐々木さんといえば軽トラ
ってことになっちゃいました♪





■後付けの「理由」
ぼくが参加する理由。参加した理由。正直な理由は
・なんとなく、行ってみたい。
・現場を見てみたい。
それだけです。
被災地のために。とか、被災者のために。っていう意識はありません。

でも、今回、いい言葉を見つけました。
「できる人が できる時に できる事をする」

使い方は
問:なんでボランティアに行くの?理由は?
答:あのね、こんな言葉があるんだよ
 「できる人が できる時に できる事をする」
ようはそれだけのこと
「ぼくにでもできることがあるし 今は行かせてもらえる状況だから」

うまくまとまらないけど。そーゆーことにします。




みなさん、おつかれさまでした^^
機会があったらまたお会いしましょう♪


■組合の新聞
200字で感想文を書くよう依頼されて
200字では書けない。って言ったけど
ありきたりの文章でいい。ってことでしぶしぶ

こう書いたのに (これで213文字)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

できあがりはこれ


ぼく、「するべき」なんて言うつもりはないんだけどなぁ・・・





■2013.3.10に思ったこと(2013/03/10)


地震予知のためにたくさんの人が研究を続けているらしい。

でも、それって本当に意味あるの?

地震が発生したあとになって「この地震は、ここの場所がこれこれこんなしくみでこうなったからこうなった。そしてこうだったからこんな津波が発生した」そんなふうに後付で、もっともらしく「私は予想していた」のような話ばかり。

地震のメカニズムは、こっちのプレートにこっちからのプレートがもぐりこんでいって、そのときにここがこう引っ張られて縮んで、その力がいっぱいいっぱいになって戻るときに・・・。

そのくらいわかればもういいんじゃない?お金かけて研究したって、どうせ予知なんてムリだから。「いつとは言えないけれど、近いうちに南海地震は発生する」そんなのは予知って言えないでしょ。そんなことはもうわかてるんだから。それより、地震が発生したら、そのあとどうするか。にお金をかけるべきだよ。

3/10のNHKの「THE NEXT MEGAQUAKE」を見るまでは、そう思っていました。

3.11に活かすことはできなかったけど、でも、確実に「予知」として役立つ可能性が見えてきている。これはすごいことだと思う。

もういい。ムダ。そう思っててごめんなさい。です。

近い将来「あと数日で」のレベルで予知できる日がくる。そう感じさせる内容でした。

もしもそうなったら、次に懸念されるのが、「予知の運用」。

たとえば「今から7日以内に、マグニチュード○の地震が発生し、○○地方で震度○の地震が・・・」と国が、気象庁が、発表するとして、

結果、はずれたときに、
「あせって避難したのに〜。ま、いっか。被害がなかったんだから」と、笑って済ませる人。

そうではなく
「避難しろといわれたから避難した、なにも無かった。その間会社の経営が止まった。その間○○万円の売り上げがあるはずだった。どうしてくれるの?だれが責任取るの?」
とくる。これが問題。だよね。

優しさとか、人情とか、それだけでは解決できない問題がある。それが現実。

でも、だけど

そんなことに取り組んでもムダ。って思ってたことが、努力で実を結ぼうとしている。それは事実。

その一方で

とにかく今すぐやらなきゃいけない原発への対応。これ、もう、議論する以前の問題だよね。

放射性廃棄物の最終処分の方法が決まっていないままスタートしてること。この時点でもう、終わってるってこと。だよね。

百歩ゆずって、「スタートしちゃったから、で、こんなにあぶないってわかったから。だから今からちゃんとしようよ」って。今はその時なわけだから、もうとにかく作ったことがまちがいだった。がんばって無くそう。の方向に行くしかないはず。

でも、政治はそうじゃない。

将来のため。のようなことを言ってるけど、実際は「今がよければいい」それだけのこと。みんなのため、日本のため。のようなことを言ってるけど、実際は「自分がよければいい。自分に近い人がよければいい」それだけのこと。

だだ、たとえば、「私は、昭和の初めのような薄暗い夜でもがまんできる。ケータイ電話がなくてもガマンする。エアコンがなくてもがんばる」って言う意見がある。

でも「ウチの○○は、電気で動くこの装置がないと生きていけない」のような人もいる。

むずかしい


ぼくは、今の世の中は(なにをさすか、むずかしいけど)

今の世の中は、あと100年、せいぜい200年くらいしかもたないんじゃないかなぁ。って結構本気で思ってます。数字の根拠はないけど、感覚だけど。でも、あながち間違いじゃない気がする。もちろん間違いであってほしい。でも・・・。




■大船渡に行ってきました(掲示板のコピー) 投稿日:2012/07/22(Sun)


誘ってくれたのは石川県のAさん。去年の大船渡でのボランティア活動のときにたまたま一緒に作業をしたのがきっかけ。

岩手に行く用事ができた。岩手といえば大船渡。せっかく岩手に行くんだからどうしても大船渡に行ってみたい。行きたい場所がある。やりたいことがある。今の大船渡を見てみたい。本来のスケジュールの前日に行程を追加して、どうしても行ってみたい。だから協力してね^^

はい^^♪

そうと決まったら、ただ行くんじゃなく@あそこに行ってあれをするAあそこでそれBあの場所でこうCそれとあれ・・・と計画を。

たくさん書きたいんだけどぜんぜんまとまらない。やっぱ被災地を語るのは、ぼくには難しすぎ。表現は悪いけど、腫れ物に触るようにしなきゃいけないの?そうでもあるしそんなことはないし。でもこのとおりこんな書き方になってるし。行ってきてよかった。正直言って、楽しかった。でも観光レポートにしちゃいけない。ぼくはそう思ってる。難しい。


出来事のひとつ「TUBE被災地復興応援ライブ」

仮設商店街に行ったらポスターが貼ってあった。よく見たらそのライブ。まず思ったのは、正直な感想は「ラッキー。TUBEのライブが観れる。しかも無料。今日来てよかったー」

とってもとってもよかった。みんな元気でノリノリだった。ただ、普通なら遠慮しないで最前列にむりやり行きたがるはずの性格のぼくでも、なんとなく、あたりまえだけど、たまたま遊びに来たぼくがTUBEだTUBEだわーいわーい。って観るのはちょっと違うかも。って思った。そこなんだよねぇ。表現がよくないけど、腫れ物に触るようにしなきゃいけないの?そうでもあるしそんなことはないし・・・。地元の人は、どんな思いでここに立っているのか。こんな素敵なイベントを企画してくれた人たちの努力はどれほどのものだったのか。なにも知らないぼくが、ここで「TUBEだTUBEだ」でいいのか・・・。ん〜。
TUBEを聞いて涙が出たのは初めてだなぁ。。。

前田さんが言ってた
「今日よりも明日、明日より一年後、一年後より十年後が笑顔でいられますように!」
そうだよね^^

TUBEだけじゃなく「歌でなにができるかわからないけど、歌がなにかの役に立てれば」とたくさんのアーチストがこうやって活動している。いいなぁ。素晴らしいなぁ。いつかぼくもそんな歌手になりたいなぁ。

結局こんなまとめかた?!

最低^^;

























□「つなみ」(文藝春秋臨時増刊号)(2011/07/31)


             


ジャーナリストが避難所を巡って作文を書くことを依頼して、賛同してくれた子供が書いてくれたものの文集です。テレビで紹介していたのを見て、すぐに購入しました。

こどものことばで、しっかりと表現されたあの時の様子。どの作文を読んでも、涙がこぼれます。あの時の惨状が子供たちの見たままの、こどもたちの感じたままの文章になっているから。

作文を書いてくれた子供たちは、あんな体験をしたのに、がんばって前を向こうとしている。感謝の気持ちをしっかり持ってて、大きくなったら自分も困ってる人を助けられる人になりたい、ならなきゃいけない。って思ってる。こんな作文を書いてくれる子供たちがいる限り、日本はまだ大丈夫。そう思えてきます。

こんな立派な気持ちを持った子供でいられる理由は、もちろん子供自身の生まれながらのものもあるだろうけど、影響が大きいのは親の接し方だと思う。子供にどんな言葉で教えるか、どんな方法で伝えるか、親によって様々だとしても。

ようするに

みんながこんなふうに辛い状況の今、こんなふうに力を貸してくれてる人がいるね。感謝しなきゃね。人は一人で生きてるんじゃないんだよ。自分だけよければいいんじゃないんだよ。ということを。

ぼくはひねくれてるから、実はこんなみかたをしちゃってる

作文を書くことに賛同してくれた子供たちは、ひとことでくくれば、強引な表現だけど「作文を書くことが苦手ではない、立派な志のあるこども」

でも、じゃあ作文を書いてくれなかった子供はダメな子供なの?もちろんそんなことはありません。書かなくても、このことは断ったとしても、それがだめなことなわけないでしょ。

書かない理由って、わかる気がする。単純に、作文が苦手。ってのがまずあると思う。それよりも。あんな恐怖を思い出したくない。ましてや振り返りながら文章になんかできない。それと、世間の理想は「被災しても、前を向いて、元気をだして、力を合わせて、未来を信じて」だろうけど、被災の状況と、その後の生活は人それぞれだと思うから。

家はなくなったけど家族は全員無事。だったり。家も家族も失ってひとりぼっち。だったり。遠くの親戚に身をよせて、そこで再出発できる。もあれば、いまだに避難所生活で、この先も見通しがたたない。だったり。

無理矢理すべてのこどもたちに作文を書かせたら、この「つなみ」に掲載されている前向きな作文とはまったく異質の作文ができてしまうんじゃないのかな。っていう余計な心配もあるし。でも、その心配はまちがいではないような気がしてしまう。

でも、人間はみんな強いわけじゃない。弱い人間を、あきらめかけてる人間を、強い人間が、励ましてくれることのできる人が、みんなでささえる。ささえられる人がいて、ささえる人がいる。それが社会だから。

この文集のために書いてくれたこどもたちのような気持ちのある人間がいる限り「困った時は助け合おう」っていう日本が続くと思う。

情けない政治はアテにしないで、みんなで力を合わせて。
でも、現実は、いやでもその政治の上で暮らしてるんだけどね

それと、最近報道が多くなってきたけど、避難区域になっちゃって誰も人がいない所での盗難事件。これも現実。立派な志のこどもがたくさんいるのに、最低なオトナ(たぶんオトナ)もたくさんいる。これも現実。


つづく・・・



 ↓ 震災ボランティア ↓


■震災ボランティア(岩手県大船渡市)(2011/06/20〜2011/06/25)

(きっかけ)

組合のチラシが回覧されてました。内容は「震災ボランティアの募集」
期間:6/20〜6/25
活動場所:岩手県(大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市のいずれか)
その他いろいろ詳細が

お、これ、行ってみよ。
なんだか、なんとなく、参加したいなぁ・・・、って感じ。

被災地のためとか、被災者を元気にとか、そんな感覚じゃなく、なんだか、なんとなく、

いまの時期だし、あんな場所だから
暑いし、雨だし、臭いらしいし、疲れるだろうし、遊びじゃないし
だけど行ってみよ。

不謹慎だけど「見てみたい」がホントの理由のような気がする。
で、応募しちゃった。


(6/20 月曜日)

今日は移動日
夕方五時過ぎ、岩手県気仙郡住田町のベースキャンプ(宿泊場所)に到着。
挨拶してベッドメイキングしてたら、日曜から現地入りしているみなさんが作業から帰ってきました。





まずは顔合わせ。
北海道から沖縄まで、あちこちからの40人を超えるみなさんと、自己紹介をしながら情報収集。今日はこんな仕事をしてきたよ。あんな仕事をしてきましたよ。って教えていただきました。

メンバーは数人ずつの班を編成。これまで7つの班があって、ぼくたちは第8班に。現場での作業はもちろん、ベースキャンプでの食事の当番なんかも班単位で行います。

現場は大船渡市。あしたはどんな一日になるのかなぁ。


(06/21 火曜日)

6:30起床。朝食たべて準備して8:15出発。

バス二台に分乗して、住田町から大船渡市に移動。ボランティアセンターで作業指示を受けます。

ぼくの班は、大船渡の港で断熱材の袋詰め作業。

水産加工工場の建物全体が冷蔵庫で、その壁が津波で壊されてしまって、壁の中にあった厚さ10センチで1m×1mの断熱材がもう使えなくなっちゃって、砕かれて外に山積みになってて、それをひたすら袋に詰める。そんな作業。



この作業自体は、正直言ってたいして疲れるわけでもない、まぁどちらかといえば楽な作業。しか〜し、その現場は、においが最大の敵!この冷蔵庫にはこれまでサンマが大量に保管されてて、そのにおいが断熱材にしっかり染み込んでるから。

そういえば前日夜の情報収集時、あそこのあの作業はにおいがすごいですよ!って言ってたなぁ。ここがそれか。やはり百聞は一見にしかず。でもぼく実は、もっともっと倒れそうなくらい、吐きそうなくらいくさいのかとイメージしてたんで、それほどでもないな。って感じてました。

でもやっぱりマスクは外せないし、結構息苦しいし、環境としては良くありません。ひたすら詰め込みひたすら運ぶ。これの繰り返し。

実は少し前はここに山積みのサンマがあって、そのときはもう本当に吐くくらいの状態だったそうで。それを、ここの社員のみなさんが必死に処分したとのこと。











今朝バスで移動してきて、ボランティアセンターがもうすぐって頃、なんだか外がくさいな。って気がしてました。実はここのにおいがかなりの範囲に広がってるってことみたいです。


作業指示を受けてこの現場に移動する時、はじめて「被災地」を見ました。

言葉にならない。

でも作業は始まる。

簡単な説明を聞いて、じゃ、始めてください。お願いします。

ただ黙々と作業を繰り返しました。

現場の作業は3時で終了。ここのこの作業はいつまで必要なんだろう?少なくとももう一週間?二週間くらい?はかかるだろうな。って感じ。

後片付けをして、温泉に。すっきりさっぱりいい気分。と言いたいところなんだけど、なんだかにおいが残ってる気が。その理由のひとつは、たとえば長靴。現場ではいてて、もちろん洗ったんだけど完璧には落ちなくて、それがバスの中にあるから。他にも作業服とかいろんなものに染み付いてるし。温泉で全部着替えたんだけど、においの元は袋に入れて完全に密封しないとダメみたい。


夜の反省会は、そんな話をつまみに盛り上がります。

いや〜、皆さんが言ってた意味がわかりましたよ。でしょ?最高だったでしょ?うん、もうあそこは勘弁してほしいですね。ですよね、でももう1回は割り当てられますよ。ですよね。あ、そっちの班はまだやってないの?じゃ、あしたはぜひ体験してください!

側溝担当もよかったですよ。側溝に詰まった泥を取り除く作業なんだけど、泥の中に最高の状態の魚がいたりするんですよ。それをスコップでざっくりやった時にはもうアウト。まるで“においの地雷”状態ですから。その中にはこのくらいの(3センチくらいの)ウジ虫がたくさんいて、これまた強烈ですよ!腰は痛いし素敵な1日でしたよ。

この会話って、もしかしたら、しかられるかもしれない会話だと思う。でも、こうやって集まってる人からすると、こうやって話すことによってなんだか、つらい仕事も笑える仕事になるような気がしてきます。だから、これは、許してください。

被災地のみなさんには失礼かもしれないけど、楽しむくらいの気持ちでやらないと、このての仕事は続かないと思う。もちろん、言葉を発するのは、場所を相手をわきまえて。何をするにも気配りってのは絶対必要です。


あしたはどんな仕事になるのかなぁ。


(06/22 水曜日)

民家の床板剥がしとその下に入り込んだ泥の袋詰め。一階の頭の高さくらいまで浸水したそうです。

気温は30度らしいけど、海からの風が気持ちいい。

昨日は、においが強敵だけど作業そのものは割と楽。今日は、風はさわやかで空気はおいしいけどかなりの力仕事。

がんばりました。何をするにも器用な人と不器用な人がいますね^m^

でもみんな心を込めて汗を流してます。

アクエリアス 午前2本 午後3本


現場に来るまでは、被災者は下向いてんだろうな。とか、ボランティアはただ黙々と仕事するんだろうか?なんてイメージしてたけど、もちろん心の底から笑える日は遠いだろうけど、ぼくが話した人は明るかったし、ボランティアは、キツイ〜って言いながら汗だくの笑顔で仕事してる。

まわりがあまり気をつかいすぎず、自然体でくらすのが大事なのかもしれないなぁ。

ここの奥さんは、津波のときは職場にいて、自分はなんともなくて、でも家族と連絡取れたのが4日後でみんな無事で、でも道路が通れなくて、自宅に帰ったのは、自宅を確認したのはあれから5日後で、そしたらこんな状態だった。だそうです。

ここにぼくたちを乗せてきてくれた運転手さんと知り合いだったらしく

あら〜○○さん
おー○○さんじゃない

家、残ってたかー
半分でも残って、いがったねー

いや〜
いっそ全部流れたほうがすっきりしたよ〜

そんなこと言わねーで
おれの家なんかきれいにながされちまって北上の温泉旅館暮らしだよ
仮設の抽選3回もはずれてよー
1時間40分もかけて往復して、こーやって運転手してんだよー
お母ちゃんと二人でじっとしてるより
こうやって何かしてたほうが、気がまぎれるから働いてるんだー
寝られるトコあるだけでもいいよー

そっかぁ
お互い、がんばっぺね!

目からも汗が流れて アクエリアスを補給


(06/23 木曜日)

昨日おじゃましたお宅の作業の続き

昨日の時点で結構な進捗だったから、今日は割と余裕。奥さんに「なんでもいいから言いつけてください」って無理矢理作業指示を要求。そう言われても言い出しにくいみたいだったから、「ホントにいいっすよ、ぼくらがいるうちがチャンスだよ」って。で、ご希望をお聞きして、あんなことやこんなことまでさせていただきました。「ほんとに助かりました、ありがとう」って言ってもらえて、とってもよかったです。

今日もとっても汗だくで、とってもアクエリアスな1日でした。

ボランティアセンターで、「あ、今日くさいのは1班?あら、そっちも?くさいね〜。がんばったね〜。お疲れ様でした!」って会話が楽しい挨拶になってますね。



今日の夕食の時間、いただきますの前のミーティングに、地域協議会の事務局長がいらっしゃって、お話をしてくれました。その人自身も被災者なんだけど「自分は車一台を失っただけなんで、被災者のうちにははいりません」って言ってました。

以下、お話の要旨。(全てその人が自分の目で見た出来事だと言ってました。話された言葉をきちんと再現できてはいませんが、ほぼこんな内容です)


私は勤務中でした。あの地震のあと、津波が来ると判断して、というか私は地震イコール津波だと普段から認識してたので、まず従業員を避難させました。とにかくすぐにあそこに逃げろ。と。そして社内を一回りして逃げ遅れてる社員がいないか確認して、それから車で行こうとしたんだけど、道路が混み始めてるのを見て、これは自分の足で走るしかないと判断し、走り出しました。

地震後数分で道路は渋滞、すでに車は動けない状態。そこにもう津波が。何台もの車が浮き上がりはじめました。あっという間でした。今の車は、なんでも電気で制御されてて機密性も高くて、あの状況ではドアも窓も開かないらしいです。何台もの車内の人間が外に向かって窓ガラスを叩きながら助けを求めてました。水かさはどんどん増えて大きな観光バスがおもちゃのようにころころ転がっていました。

別の方を見たら、一台の車が歩道を走り始めました。歩道を歩いてる人を押しのけながら、はじき飛ばしながら。それでも進んでいこうとしてました。それに続いて他の車も歩道へ。片側1車線で歩道のある道路なんだけど、その時は片側2車線の道路に姿を変えてました。でも、どの車線もまもなく進むことができなくなっていました。

次の日、会社の様子を確認しに行きました。倉庫や工場はがれきでいっぱい。そのがれきのなかのあちこちに遺体がありました。きれいな遺体はありません。顔が半分しかないとか、手だけが落ちてる、足だけがあそこに引っかかってる。しばらくはご飯も食べられませんでした。いまでも夢に出てきます。

とにかく、地震がおきたらすぐに高いところに。それにつきます。それしかないんです。でも現実、歩くのがやっとの人がいます、寝たきりの人がいます。現実は現実です。自分のことしか考えられなくなる人がいます。現実です。

私の町にはまだあまりボランティアの人が来てくれていません。私は平日は会社、休日は全部ボランティアをしています。早く私の町にもみなさんのようなボランティアの方にきていただきたいです。


ぼくのこの文章じゃ、うまく伝えられないけど、あの夜この話を聞いたみんなは、その後の夕食時、しばらく言葉がありませんでしたね。

たいへんだけど和気あいあいとしていたぼくたちの間に、しばらくの時間、重い空気が覆いかぶさりました。

この話、聞いてよかったのか、聞かないほうがよかったのか。
ぼくには・・・わからない・・


あしたは視察という名目の休日です。


(06/24 金曜日) (被災地視察)

昨日と今日は視察の日。四十数人を半分に分けて。今日はぼくたちが視察。

バスの運転手のおじさんが、ガイド役を兼ねてくれました。ただ景色を見ながら通り過ぎるのと違って、いろんな事を教えていただけるので、とってもよかったです。

ルートは
住田町〜釜石市〜大槌町〜大船渡市〜陸前高田〜三陸町〜住田町

釜石市は
町並みがしっかり残ってて、でもガレキに囲まれてます。人の住んでた場所が、こんな景色になってる。もとの景色は知らないんだけど、でも、人が暮らしてる場所がこんな景色のはずがない。ってことはわかります。

ガイド
ここの交差点が堺目だったみたいです。
たまたま信号に間に合ってしまった車は、津波が押し寄せてくる向こう側に進んで行ってしまって、戻ることもできずに命を落とした。そんな人がいたそうです。

「運」って、こんなことなのかもしれない。


大槌町は
津波でほぼ全滅してしまったうえに、さらに火災が発生。もしかしたら、頑張って浮いてた人も、火災のせいで亡くなってしまったりしたんだと思う。


陸前高田は
地盤沈下がひどい。野球場なんかが海面より低くなってしまってる。自分の土地そのものまでなくなっちゃった人がいるということ。これじゃあ、新しいスタートもなにも考えられないと思う。


三陸町では
運転手さんが言ってました
あそこに見えるのが、娘夫婦の家。二年前に新築したばかり。回りは流されたけど、新しい工法だからなのか、流されないで残ったみたいです。でも、住める状態じゃないんだから同じ事です。どうにもなりません。


昨日までは、作業してて大汗かくからアクエリアス。

今日は、視察だから全然汗かかないんだけど、なんだか目から水分が溢れ出て、やっぱりアクエリアスが必要でした。

見てみたい。って思ってました。実際に見ました。  絶句。

見たことがこれからのぼくの何になるんだろう…。見たほうがよかったのか。見ないほうがよかったのか。

答えは・・・わかりません・・


よく
誰にでも辛いことや悲しいことはあるけど、
それを乗り越えるから、その先には感動がある。喜びがある。
なんていうけど

ここまで辛い経験はあまりにもひどすぎる仕打ちで
こんなこと、知らないほうがいいし、知る必要はないし、知りたくない。って思う

でも
被災地も、被災者も、日本も、日本人も、これを教訓にしなくちゃいけないと思う。

下を向いてるだけじゃなく
対岸の火事って思わず
みんなが教訓にしなくちゃいけないと思う!


(06/25 土曜日)

小学校の体育館に保管している救援物資を、大型トレーラーに積み込む作業。

単純で簡単そうな仕事だけど、簡単で単純でした。
でも結構ハードでしたね^^

ハードだった理由の一つは「チームワークがよかったから」だと思ってます。なんだかみんなのリズムがぴったりで、自然にポジションが決まってきて、みんながちゃんと役割を果たして。自然にいい感じのテンポになってきて。とっても楽しいひとときでした。

今回一緒に汗を流したメンバーは、みんなとっても気さくで、変に気をつかう必要がなくて、被災地に、被災者に何かしてきた。っていう感じよりも、楽しかった、とっても貴重な体験をさせてもらった、っていう感じのほうが強いです。機会があったら、また会いたいなぁ。って思える人ばっかり。

みなさん、ほんとにお疲れ様でした。ありがとうございました♪




(その他)

・いびき
作業そのものは、その時その時は、疲れるとか重いとか難しいとか上手くできないとかくさいとかいろいろあるけど、でもそんなことはあたりまえだし、文句を言うことじゃないんだけど。

ぼくが今回の集団生活でいちばんこたえたのは、いびき。
睡眠時間は毎日4時間くらい。
ちょっと、いや、結構きついかったでございました。

体育館で寝ている四十数人のおやじのうち、いつでも必ず五人はイビキをかいている。多い時は十人くらい。どうにかなりませんかねぇ・・・


・お風呂
毎日の作業後のお風呂。洗い場が全然たりなくて、お風呂場でおやじが十数人、素っ裸で立って並んで洗う順番を待っている。バスで到着した二十数人が一斉にお風呂場に駆け込むもんだから当然こうなります。これは異様で、見たくない風景でしたね。思い出しただけで、ぞっとします。もちろん仕方のないこと。しょうがないこと。でも、二度と体験したくない状況です〜^^;



↓日記↓


■日記

(2011/04/06)

つらいとき 悲しいとき へこんでるとき

笑いたいけど笑えないとき

笑うきっかけがほしかったりするとき


そんなとき

きっかけとして

気を紛らわす 気を紛らす きっかけとして

猪木のような 

演奏のような

お笑いのような

いいかもしれない

http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2011/04/06/kiji/K20110406000571290.html



もちろん たくさんの人がいるから その場の空気をちゃんと確かめて

いいかもしれない^^

こんなときに そんなこと

って思ってたけど

そんなことも あったほうがいいような気がする

もちろん たくさんの人がいるから その場の空気をちゃんと確かめて

いいかもしれない^^

有名人や そんな人は

いま ちょっとだけ 出しゃばって いいかもしれない^^


最後までがんばれるように じゃなく
ずっと元気でいられるように じゃなく

今 少しでも 気がまぎれるように

いいことかもしれない^^


(2011/04/01)

きょう 仕事で 被災者のみなさんの避難所に行ってきた

お昼でも休めないから 続けてたら

「豚汁食べませんか? ここに持ってくる? あっちで食べる?」って
声をかけてくれた人がいた


えっ?

みんなで作ったから おじさんもいかが?

避難しているみなさんが 自分たちのために 自分たちで作った豚汁

たくさん作ったから いかがですか? ってことだった


もちろん ぼくの返事は

そんな・・・いただけません みなさんで召し上がってください

いいからいいから 遠慮しないで

ほんとに いただくわけにいかないですよ

いいからいいから 食べて^^
って、何度も言ってくれた

でも いただけなかった・・・

そのあと なぜだか 鼻水が出て 困った


実は こんな勘違いが頭をよぎった

もしかしたら いただいても いいかな?

毎日つらい空気の中で 同じ顔ばかり見てるから
たまには変わった顔と会話でも なんて気持ちだったりするのかな?


でも

声をかけてくれた人は そんな気持ちでも
いざ その場所にお邪魔したら 中には
なんであのおやじがそれ食べてるんだよ って
そんな思いの人がいるかもしれない



でも

いただいたとして 会社に戻って
今日 あそこで 被災者のみなさんから豚汁をご馳走になってきました
って言ったら 絶対に お前、馬鹿か? お前、鬼か? お前、そこまで最低か?
って言われると思う 当然だと思う

でも

その場の空気が それを許す空気だったら


むずかしい

まわりが変に気をつかう必要は ないのかもしれない

気をつかうのは 礼儀だけど

気のつかいすぎは 失礼になるかもしれない

でも むずかしいかもしれない

これは ほんの 一例にすぎない

でも やっぱり むずかしいかもしれない

人の数だけ 思いがある

人の数だけ 受け止め方がある

全部を気にしてたら きりがない

どこがちょうどいいのか わからない

むずかしい

こうやって 書いてるけど 結論は出ない わからない



現場に ずっと いなくちゃいけない人たちは 現実の中で 暮らしてる

テレビで インタビューに応えるみなさんは みんな立派な人に見える

ぼくは ひねくれてるから

中には「マイクやカメラなんか向けるな、ばかやろー」なんて言う人がいたり 「がんばります。なんて言えないよ」「立派なセリフは出てこないよ」「取材なんてしてるヒマがあったら、ここ手伝えよ」なんて言ってる人もいるんじゃないのかな?って気がしてる。

ぼくだったら たぶん マイクやカメラに八つ当たりするような気がする
たぶん 本当に すると思う

今日 声をかけてくれた人は 強くて優しい人だと思う


(2011/03/30)

サッカー選手が 90分がんばって
野球選手が 9回裏までがんばって
最後までがんばって
最後まであきらめないでがんばって
その姿を見せてくれる

そして、そんな選手の中には「ぼくたちはこうして最後までがんばってます。みなさんも最後まであきらめずにがんばってください」って言う人がいる。

わかる

でも

被災者は 被災地は
がんばらなきゃいけない時間が
数年〜数十年 だと思う
最後まで・・・って言うには
あまりにも長すぎる
あまりにも遠すぎる

もちろん 選手のみなさんには感謝してる

でも

被災者の本音は

「選手のがんばりを見てる時は
その一瞬は
つらいということを
たいへんだということを
泣きたい気持ちを
忘れることができる」

じゃないかな

もちろん

勇気をもらった!
元気になれた!
私もがんばらなきゃ、と思った!
って言ってくれてる人を 否定しているんじゃありません


(2011/03/25)

被災地の、ガレキの中の、あんな景色の中で
「何年かかるかわかんないけど、やるしかない、生きるしかない」
って言ってる被災者のみなさん

ぼくは、直接の被害はなかったけど
もちろん、これからも被害に遭いたくはないけど
もしも、そうなったとき
あんなふうに言えるんだろうか
あんなふうに言わなきゃいけないんだろうか
ただ、だまって下を向いてる人間になっちゃうんじゃないだろうか

こうして暖かい部屋でのんびりパソコンに向かってこんなことをしてる人間が
「被災地は大変なんだよ」って軽々しく言うことは、簡単なこと

でも、こんなぼくでも、こんなことをあれこれ考えてしまうほど
この出来事は大きな事。大きすぎる事。ってこと

2011年3月11日をきっかけに
日本は変わらないといけない
そのためには
自分が変わらないといけない
みんなが変わらないといけない

復興しないといけない
笑えるようにならないといけない

あたりまえだと思っていたことが
実はぜいたくでわがままで危険なことだった
と 気がつかないといけない


でも、数ヶ月後のぼくは、
たぶん、これまでと変わらない生活をしていると思う
していたいと思っている


被害が拡大しませんように
はやく終息しますように
復興へのスタートが始まっていますように


お金は出せないけど、無駄遣いはしないように心がけなきゃ
遊べるときは遊ぶけど、我慢できることは我慢しなきゃ
できることは しなきゃ


(2011/03/21-2)

ボランティア

アルバムや写真にこだわりのあるおじさんは
このボランティア、素敵だと思います♪

「思い出が詰まった大切な写真を持ち主に返したい」。300世帯以上が津波被害を受け、30人が犠牲になった岩手県野田村で、地震後に帰省した大学院生らが20日、がれきの中にあったアルバムや写真を持ち主に引き渡すボランティアを始めた。泥だらけのアルバムをめくって「うちのだ」と喜ぶ被災者もおり、周囲は笑顔に包まれた。

記事はこちら ↓
http://mainichi.jp/photo/news/20110321k0000e040017000c.html


(2011/03/21)

センバツ開催決定・・・ 

ぼくは、高校野球大好きおじさんで、どのくらい好きかの勝負をしたらおそらく日本一だろう、という自負があります。だから、センバツをとっても楽しみにしてました。

だけど、今回は、自粛してほしかった。
今は、そんなタイミングじゃないと思う。

決めるのは主催者。開催すると決まったんだから、選手はきちんと高校野球をしてほしい。

前にも書いたけど
「よし、勝つぞ!」の気持ちで
「しっかり頑張るぞ!」の意気込みで
「悔いは残さない!」の決意で
やってほしい!

決して「ぼくたちのプレーで、被災者を元気にしたい」とは言わないでほしい。そんなセリフは、勘違いだと思う。

テレビでは、画面に大写しにしないで、せめて1/8くらいのサイズで遠慮して放送してほしい。実況中継は遠慮して、スコア表示だけでいいと思う。被災地で耐え忍んでる人たちが、その時本当に見たいのが野球なのか、知りたいのが野球なのか、考えなきゃいけないと思う。

センバツに行った選手は、地元に帰ったら「行かせてもらってありがとうございました。と、すれ違うみんなに感謝して、会釈しながら歩かなきゃ」くらいの気持ちを持ってほしい。そんな気持ちになってくれればそれでいいと思う。

不幸があった時、喪に服す。悲しい出来事があった時、それなりの期間は自粛する。これが日本人の心だと思う。そんな心があるから日本人なんだと思う。



一杯の温かい味噌汁に、涙を流しているみなさん。

危険とわかっていても、任務だから。の作業員。

ほとんど被害も影響もなくて、ニュースとバラエティを交互に見ているお茶の間。

だれかれかまわずマイクを向け、くだらない質問をするリポーター。

政治家や識者や有名人の、こんな時にそんなセリフ?の非常識発言。

人の数だけ思いがあるし、立場の数だけ発言がある。
どれが正解なのか。だれが正しいのか。決めることはできないかもしれない。

ひとりひとりは、みんなやさしいはず。
でも、みんな、ひとりじゃ生きられない。

どんなにショックな出来事でも、時間が経過するとだんだん記憶から薄れていく。
ぼく自身が、そのいい例だと思う。
だから、今の気持ちを忘れないように、ここにメモしておきます。


(2011/03/16)

『平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震』


いまのぼくにできることは

節約すること がまんすること 優しくなること

できることを がんばろう^^

http://jp.reuters.com/news/pictures/rpSlideshows?articleId=JPRTR2JR31
http://jp.reuters.com/news/pictures/rpSlideshows?articleId=JPRTR2JUO3
http://jp.reuters.com/news/pictures/rpSlideshows?articleId=JPRTR2JTNF


 
    
 ささき家のアルバム♪ ささきけどっとこむ☆